ブログ│宗教法人 稱念寺

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住職法話5月「みんなでするとプラスになる」

フランスの貧しい村のお話です。

その村にある教会に長い間おられた牧師が他の村へ移り住む事になりました。
長年お世話になった牧師に対して、村人たちは何かお礼をする事になり、相談しましたが、貧しい村なので、贈る物がない、お金がない。

そこで、村長は、村人全員に対してワインを一杯ずつ持ちより、樽に詰めてこれを感謝の品と考えました。
村の真ん中に樽を置き、村人全員が樽にワインをそそぎました。
ワインで満たされた樽を贈られた牧師は感激し、その村を離れたのです。
新しい赴任地に着いて、この牧師はワインを飲もうとして驚きました。
なんと、ワインが真水に変わってしまっていたのです!
驚いた牧師は、この不思議な出来事を前の村の村長に伝えます。
連絡を受けた村長は、原因を調べるために村人たちに話を聞いてみると。
この村人たち、「自分ひとりくらいならバレないだろう」と考えて、全員がただの水を樽にそそいでいたのです。
自分だけだと思ってやったことをみんながやるとプラスのものがゼロになってしまうのです。

協力しなくても、大丈夫という考えではなく、一丸となり物事にあたると大きな力になります。
誠実さ、素直さ、正直者が報われる世の中であって欲しいものです。

新型コロナウイルスで自粛が続いています。皆さんの力をひとつにして、この難局を乗り越えたいものです。

仏さまは、皆さんの行動を、見てござる、知ってござる、聞いてござる。
今月があなたにとって、よい月でありますように。合掌

 

暖かくなってきたので、今年初の鯉に餌をやりました。

池の水が青いのは消毒したからです。

まずは池を消毒し、鯉が病気にならないようにします。

 

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4月掲示伝道

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住職法話4月「合掌」

キリスト教も神道も両手を合わせて、礼拝したり、祈ったりします。

浄土宗の合掌は堅実心(ケンジツシン)合掌といいます。

堅はたしかにとか、かたいですから間違いのない、確かな合掌

今だけではない一生涯私たちは念仏申しますというかたい約束を表します。

また、実はかわらない、中身がしっかりしているという意味であり、うわべだけではない、真実がちゃんと備わっています。

右手が仏様 左手が私達と言います。

「右仏、左衆生と合わす手の 内ぞゆかしき南無のひと声」

宗教は合掌からはじまります。日常生活では右手と左手は同じ手でありながら、役割は別々であり、違った動きをします。食事の時は右手で箸を左手ではお茶碗を

字を書く時は 右手でペンを左手では紙を押さえます。

合掌は同じ動作をいたします。堅実心合掌の意味を理解して、合掌していただきたいものです。

住職法話3月「法然上人のみ教え」

宗教とは大別して、悟りの宗教と救いの宗教があります。

法然上人は、内心を問うてみると、己の力ではどうしても悟れない、仏教の基本的修行の三学(戒・定・慧)を極める事が何一つできないこの私がいると、かねがねおっしゃっておられました。この自覚こそが、念仏者の出発点であります。阿弥陀様の本願を信じて、念仏により救われていく。救いの宗教を求め、そして、「凡夫」のための宗教を法然上人は確立させ、凡入報土(凡夫が阿弥陀様の極楽浄土に往生すること)のみ教えをありがたく頂くのであります。そのご恩徳に報恩感謝の誠を捧げたいものです。

 

毎年4月第二日曜日は7ヶ寺での御忌(ぎょき)法要(法然上人のご恩徳を偲んでする法要)を勤める予定でしたが、新型コロナウイルスにより、残念ですが、中止となりました。

 

3月掲示伝道

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2月掲示伝道

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住職法話「素直に」

『涙』

仕事一本 ガンコな父 名前で呼ばれたことも なかったから

必要以上 会話すらない そんな関係である

ある警察官は 僕の父に質問をしました

「子どもを漢字一文字でたとえるとなんですか」

まっ白な紙に 大きく 大きく 書かれた文字は 「宝」でした

そのとき ぼくは おさえられない なにかを感じました

数秒後には キレイな 涙が流れていました

 

奈良少年刑務所で、詩の授業があり、受刑者たちの詩集「世界はもっと美しくなる」の中に書かれている「涙」というDくんの詩です。

なにも書くことができなかったDくんが、3回目の詩の授業で「涙」という作品を出されました。

 

心の内を素直に見せる事ができなかったのでしょう。2回目までの授業では心を閉ざしていたから、詩が書けなかったのではないでしょうか。3回目には見違えるほどの素敵な詩を書かれた。心が解放された瞬間であります。

親はいつまでも子どもの事を案じている、そしてどんな悪いことをしていても見捨てない、宝物として、我が子を見ている。

 

阿弥陀様も必ず見捨てぬぞ、だからこそ我が名を呼べと、慈悲と智慧のまなざしで、私たちを見続けてくれています。心の我を張るのではなく、素直に受けとってまいりましょう。眼には見えない支えられているものに気づき、お念仏を申してまいりましょう。

 

 

1月掲示伝道

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住職法話1月「新たな年」

明けましておめでとうございます。

「正月」の意味については、色々な説がございます。

正しい月と書いてお正月といいますが、正すとは何でしょう?エリを正すといいますが、真っ正直な気持ちになるという意味でしょう。「正」はあらためるという意味もあります。

自分の生き方をあらためる、見直すと同時に他人から言ってもらわないとわからないことでもあります。

人様からの呼びかけに、耳を傾けていくことも大切であります。

正月はその呼びかけの中に、人生に対する自分の姿勢をただし、自分の命の生き方を問いただす意味もあります。

阿弥陀様も私たちに目覚め、気づけよと呼びかけておられます。その呼びかけに、「南無阿弥陀仏」と答えていきましょう。

この一年をどう過ごすか、心新たに皆様が幸せで、実りある年になりますよう祈念申し上げます。合掌