住職の法話(八苦)
八苦とは愛別離苦(アイベツリク)・怨憎会苦(オンゾウエク)求不得苦(グフトクク)・五蘊盛苦(ゴウンジョウク) 前回法話の四苦を合わせて、四苦八苦。全部で十二の苦ではなく、八つの苦であります。
「出会いは、別れの始まり」という言葉があるように、私たちは必ず別れというものを経験しなければなりません。特に愛するものと別れなければいけない苦しみを愛別離苦といい、四苦八苦といわれる苦しみの中で一番辛い苦しみといわれます。
「しゃぼん玉」という童謡があります。これは野口雨情氏が作詞した歌ですが、この歌詞が作られた背景には、2歳の愛娘の死があるそうです。
「しゃぼん玉とんだ 屋根までとんだ 屋根までとんで こわれて消えた しゃぼん玉消えた 飛ばずに消えた 生まれてすぐに こわれて消えた 風 風 吹くな しゃぼん玉とばそ」
しゃぼん玉とは人間の命のことでしょう。この世に生を受け、屋根まで、つまりある程度のところまで命ながらえて生きることのできる人もいます。しかしながら永遠というわけにはいきません。いつかはこわれて消えるのです。そして2番の歌詞は特に娘のことを思って作ったのでしょう。娘が生まれて、本当に人生のスタートラインに立つかどうかのところで命が消えてしまった。「風、風、吹くな」とは偽らざる願いでしょう。しかし、ひとたび無常の風が吹きぬければ、命はなんともはかなく失われてしまう。その風は私たちの願いとは裏腹に、いつ吹くかもわかりません。私たちの命のはかなさを歌っているのがこの「しゃぼん玉」という童謡です。この詩と愛娘の死とは直接関係ないという説もありますが、幼くして亡くした子どもの偲んでこの詩を書いたのは明らかです。
法然上人のお言葉の中に、「会者定離は常の習い、今始めたるにあらず。何ぞ深く嘆かんや。今の別れはしばらくの悲しみ、春の夜の夢のごとし」
会う者は必ず別れるということは、世の定めであり、今に始まったことでもありません。どうして深く嘆くことがあるでしょうか。今の別れは、しばしの悲しみに過ぎず、春の夜のはかない夢のようなものです。とおっしゃっておられます。
そんなことは頭でわかっていても、その現実を引き受けることはなかなかできません。ましてや自分の身にそんなことが起ころうとは誰も思っていないでしょう。
しかし、お浄土での再会を願わずにはおれません。「老いる事が楽しみになってきました」という子どもを亡くされたお母さんの言葉。我が子と会える日が一日一日と近づいてくる。老いる事が楽しみにお念仏をお称えして、お浄土での再会を念じたいものです。
一休禅師は信者さんから目出度い言葉を書いて欲しいと頼まれ、「親死ぬ、子死ぬ、孫死ぬ」と書いて信者さんに渡すと、「何が目出度い言葉ですか、死が三つも書いてある」と怒りました。一休さんは諭すように「親が亡くなり、子どもが亡くなり、孫がなくなり、歳の順番に亡くなることほど、目出度いことはないのだ」と。順縁とは歳の順番になくなることであり、逆縁は歳の下の者から亡くなる。年齢順には亡くならないこの世の中、しかし、必ず亡くなることは確かであります。老後の事を考えるのも大切でしょう、しかし、老後が来るか来ないか不確定なことを考えるより、いつか必ず来る「死」を考えたいものです。