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カテゴリー別アーカイブ: 日記

10月掲示伝道

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写経会・趣味展

10月27日(土)28日(日)と午後1時から午後5時まで写経会・趣味展が開催されました。檀信徒有縁の方々の趣味を本堂に展示しました。今回は書や絵画が少なく、アクセサリーやトールペイント、切り絵、鞄などが数多く展示されました。趣味の域を超えた作品ばかりで、プロ並みの技量に驚かされました。

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10月21日団体参拝

恒例の4ヶ寺合同団体参拝を秋晴れの中、一路バスにて京都に向かいました。住職は法務のため残念ながら、参加することはできませんでした。京都六地蔵大善寺、仁和寺、東寺と五重塔巡りをして参拝を終える事ができました。

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文書伝道

10月15日大本山百万遍知恩寺にて布教師会主催の会員研修会が開催されました。基本を知らずに文章を書いていた私にとっては、ありがたい研修会でした。これ、食べれますか?これ、食べられますか?「食べられますか」が正式です。日本語の乱れの代表が「ら」抜き言葉ですが、皆さんも結構「ら」抜き言葉を多用していませんか。

 

住職法話9月

住職の法話(八苦)

八苦とは愛別離苦(アイベツリク)・怨憎会苦(オンゾウエク)求不得苦(グフトクク)・五蘊盛苦(ゴウンジョウク) 前回法話の四苦を合わせて、四苦八苦。全部で十二の苦ではなく、八つの苦であります。

「出会いは、別れの始まり」という言葉があるように、私たちは必ず別れというものを経験しなければなりません。特に愛するものと別れなければいけない苦しみを愛別離苦といい、四苦八苦といわれる苦しみの中で一番辛い苦しみといわれます。

「しゃぼん玉」という童謡があります。これは野口雨情氏が作詞した歌ですが、この歌詞が作られた背景には、2歳の愛娘の死があるそうです。

「しゃぼん玉とんだ 屋根までとんだ 屋根までとんで こわれて消えた しゃぼん玉消えた 飛ばずに消えた 生まれてすぐに こわれて消えた 風 風 吹くな しゃぼん玉とばそ」

しゃぼん玉とは人間の命のことでしょう。この世に生を受け、屋根まで、つまりある程度のところまで命ながらえて生きることのできる人もいます。しかしながら永遠というわけにはいきません。いつかはこわれて消えるのです。そして2番の歌詞は特に娘のことを思って作ったのでしょう。娘が生まれて、本当に人生のスタートラインに立つかどうかのところで命が消えてしまった。「風、風、吹くな」とは偽らざる願いでしょう。しかし、ひとたび無常の風が吹きぬければ、命はなんともはかなく失われてしまう。その風は私たちの願いとは裏腹に、いつ吹くかもわかりません。私たちの命のはかなさを歌っているのがこの「しゃぼん玉」という童謡です。この詩と愛娘の死とは直接関係ないという説もありますが、幼くして亡くした子どもの偲んでこの詩を書いたのは明らかです。

法然上人のお言葉の中に、「会者定離は常の習い、今始めたるにあらず。何ぞ深く嘆かんや。今の別れはしばらくの悲しみ、春の夜の夢のごとし」

会う者は必ず別れるということは、世の定めであり、今に始まったことでもありません。どうして深く嘆くことがあるでしょうか。今の別れは、しばしの悲しみに過ぎず、春の夜のはかない夢のようなものです。とおっしゃっておられます。

そんなことは頭でわかっていても、その現実を引き受けることはなかなかできません。ましてや自分の身にそんなことが起ころうとは誰も思っていないでしょう。

しかし、お浄土での再会を願わずにはおれません。「老いる事が楽しみになってきました」という子どもを亡くされたお母さんの言葉。我が子と会える日が一日一日と近づいてくる。老いる事が楽しみにお念仏をお称えして、お浄土での再会を念じたいものです。

一休禅師は信者さんから目出度い言葉を書いて欲しいと頼まれ、「親死ぬ、子死ぬ、孫死ぬ」と書いて信者さんに渡すと、「何が目出度い言葉ですか、死が三つも書いてある」と怒りました。一休さんは諭すように「親が亡くなり、子どもが亡くなり、孫がなくなり、歳の順番に亡くなることほど、目出度いことはないのだ」と。順縁とは歳の順番になくなることであり、逆縁は歳の下の者から亡くなる。年齢順には亡くならないこの世の中、しかし、必ず亡くなることは確かであります。老後の事を考えるのも大切でしょう、しかし、老後が来るか来ないか不確定なことを考えるより、いつか必ず来る「死」を考えたいものです。

彼岸花

彼岸花が玄関先に咲きました。花が咲き、散ってから葉っぱがようやく出てくるところから、別名「相思花」と呼ばれています。

「葉は花を思い、花は葉を思う」

お互いを思いやる気持ちが大切です。

宮澤章二氏の詩に「こころは誰にも見えないけれど、こころづかいは見える、思いは見えないけれど、思いやりは誰にでも見える。」

なかなか行動に移すことは難しいかもしれませんが、気持ちは行為となって初めて意味があります。あたたかい行為の種を撒いていきましょう。

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執着のない生き方

女優の樹木希林さんが9月15日お亡くなりになられました。その死に様は見事でありました。「人間はいつか死ぬ生き物である」とたびたび発言されておられた。それは誰もがわかっていることであるが、その事を十分に受け入れることが本当にできるのでしょうか。

虹と空

またこのような事も語っておられた。「私のことを怖いという人もいるみたいだけど、それは私に欲というものがないからでしょう。欲や執着があると、それが弱みになって、人がつけこみやすくなる。そうじゃない人間だから怖いと思われてしまうのね。」

この豊かな時代、モノが溢れている。

お釈迦様はモノを持たなかった、持ってしまえば執着が湧いてくる。だからあえて持たないようにしておられた。じゃー私たちもモノを捨ててしまえばいいのかと。そう単純な事ではない。捨てなければならないのは「執着心」である。

少しでも心の幸せを頂きたいものです。

無常の世

この度の台風、地震被害に遭われた方々に心よりお見舞い申し上げます。当寺でも瓦が飛んで、被害を受けました。鴨長明の「方丈記」の冒頭部分は、リズミカルな文章で無常を表現しています。「行く川の流れは絶えることがなく、それでいて、水はもとの水ではない。淀んだところに浮かんでいる泡は、あちらで消えたかと思うと、こちらで生まれ、ずっととどまるということがない。世の中の人間と住まいのありようを見ても、まったく同じようなものである。」

無常とは常にそのままではない。変化し、思い通りにはならない。頭ではわかっているのに、心がついて行かない。苦しみはなくならないが、「無常の世」であると受取ることができるのであれば、苦が苦でない世界があるのではないでしょうか。

前を向いて歩いて行きましょう。IMG_1885

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今年最後の蓮が咲きました。
蓮は仏教では尊ばれています。仏様も蓮の台座の上にお立ちになっておられたり、お座りになっています。また亡き人のお位牌も蓮の台座の上に戒名が刻まれています。
一蓮托生という言葉がございますが、字の如く、托生は委ねて生まれる、一蓮ですから同じ蓮に生まれる。この世でご縁が尽きたならば、極楽浄土に生まれ変わって、同じ蓮の上に生まれる。
生まれる(往生〕には阿弥陀様のみ名、南無阿弥陀仏、南無とはお任せします、阿弥陀仏様頼みますとお念仏をお称えるだけです。iPhoneから送信

住職の法話8月

住職の法話(四苦)
まずは仏教をお開きになられました、お釈迦様のお話をさせて頂きます。多くの部族
国家が分立していた時代、北インドの小国、東西80キロ南北60キロ千葉県くらいの面
積を治めていた釈迦族のシュッドーダナという王とお母様摩耶(マヤ)夫人の間にお生まれになられました。摩耶(マヤ)夫人が、出産のために実家に帰る途中、ネパールのルンビニーの花園で花に手を伸ばしたときに、脇の下から4月8日に生まれたとされていす。
紀元前463年もしくは565年という説もあります。なぜ脇という非現実的なところから生まれてきたのかと、大抵の人が思うでしょう。それは現在インドのほとんどを占めるヒンドゥー教の基になる、バラモン教が関与しているという説があります。
現在では法律上で禁止されていますが、インドにはカーストという身分階級制度があって、それは今でも根強く実態として消え去ってはおりません。
カーストでは4つの階級があり、身分の高い順にバラモン(司祭)、クシャトリア(王族)、ヴァイシャ(平民)、シュードラ(奴隷)という順であります。
そして重要なのが、バラモン教ではバラモンは神の頭(口)から、クシャトリアは(腕)から、ヴァイシャは腿(腹)から、シュードラは足の裏から生まれるとされています。
そしてお釈迦様は脇から生まれたという。つまり、王族であるために脇から生まれたと考えられているのであります。
お生まれになって七歩 歩まれました。
これは大事なことを顕しております。仏教の思想、六道輪廻(ロクドウリンネ)があります。
六つの迷いの世界。生まれ変わり死に変わり、堂々巡りしてきました。
車輪がくるくる回るように、回ってきました。
六つの世界とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上、六を超えて七の世界があります。

「天上天下唯我独尊(テンジョウテンゲユイガドクソン)」(自分という存在は、誰にも
変わることができない人間として生まれており、この命のまま尊い)シッタルダ太子が生れて七日後に母親がなくなり、妹のマハプラジャパティに育てられました。
19歳もしくは16歳でヤショダーラと結婚し、ラゴラが生まれました。 29歳で出家なさいました。
不自由なく暮らしていたシッタルダ太子でしたが、あるとき東西南北それぞれの城門から外出する機会がありました。その時に四つの苦しみ(四苦:生・老・病・死)を知ることになり、そのエピソードを四門出遊(シモンシュツユウ)と言います。
東門―老人を見る。西門―病人を見る。南門―死人を見る。北門―修行僧を見て、気高き姿に惹かれて、出家する決断をするのであります。
「生」の苦しみは、生まれてくる苦しみであります。インドでは身分制度があり、生まれながらに身分は決まっており、自分の力ではどうすることもできない。
「老」はいつか来ます。20歳までは成長である、それ以降は「老」である。「変わりたくても変われない、変わりたくなくても変わっていく。」これが人間の姿であります。
自分を変えようとしてもそう簡単に変えれない、しかしまだまだ若くいたいなぁと思っていても変わっていくのがこの世であります。
立ち上がる時に掛け声をして立ち上がる方が居られます。力を入れる時に「ヨイショ」
もう少し年配になると「ヨッコラショ」と、そしてその先は「ヨッコラドッコイショ」皆様はどの掛け声でしょうか?
「病」は心の病と体の病があります。川柳に「高血圧 ニュース見るなと医者がいい」
「病院へこないあの人病気かな」病気になると医者が頼もしく、薬が有難いと誰もが思う事でああります。宗教も自分が必要な時だけ必要なのでしょうか?その考えでもいいのでしょうが、浄土宗のみ教えは平生が大切であります。毎日の日課、日々のお念仏であります。
「死」は必然であり、「生」は偶然である。誰もが決して避けて通れないのが「死」であります。
しかし、お釈迦様を7つ目の世界をお示しくださったように、阿弥陀様は西方極楽浄土という世界をお建てになり、浄土宗をお開きになられた、法然上人は「ただ一向に念仏すべし」とお念仏申して、阿弥陀様のお他力を頂戴して、六道輪廻の世界から厭いはなれるすべを私たちにお説きくだされました。
死とは残された人にとって永遠の別離ではなく、西方極楽浄土で再会できるという希望があります。そのための葬儀や追善回向が大切になってきます。
通夜は人生の卒業式、葬儀告別式は人生の入学式である。極楽浄土に入学する大切な
儀式なのです。