ある時、釈尊は「悪いことを知って悪いことをするのと、知らずに悪いことをするのとでは、どちらが罪が重いと思うか」と、ある弟子に尋ねられました。
弟子は「はい、悪いことを悪いと知らずにするのは仕方ありません。だから、その罪は軽いと思います。しかし、悪いと知って悪いことをするのは許されないことです。したがって、その罪は重いと思います」と答えました。
すると釈尊は再び「ここに焼け火ばしがある。これをそれと知ってつかむ者と知らずにつかむ者とでは、どちらが大きなやけどをするだろうか」とお尋ねになりました。
弟子は「焼け火ばしであることを知ってつかむ者は、十分に注意してつかみます。つかめば、どうなるかということを知ってつかみますから、できたら、つかまないようにします。したがって、やけどをすることも軽くてすみます。しかし焼け火ばしであることを知らずにつかんだ者、たとえば赤ん坊などは大やけどするにちがいありません」と答えました。
すると釈尊は、にっこりと大きく、うなずかれました。
そして弟子は、この「焼け火ばし」のお譬えで、はじめのご質問に対する自分の答えが間違っていたことに気づきました。
無知というのは悪気はないから責められないけど、罪深いものです。仏教で、知機(吾が身のほどを知れ)を強調するのは、このためです。
機とは人柄であります。自らを罪悪生死の凡夫の自覚から信仰がはじまり、我が力、念我ではなく、念仏、阿弥陀様を頼りとしてお念仏ひと筋にお称えしましょう。合掌