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住職法話7月「継続は力なり」

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周利槃特(シュリハンドク)とは、お釈迦様の十大弟子の一人に数えられる方であるが、この人は物覚えが悪い人であった。
自分の名前も書けない。名前を呼ばれても周りの人から言われて自分のことだとやっとわかるほど。だから、お釈迦様の教えを聞いても理解できない。すぐに忘れてしまう。でも、悟りを求める心は人一倍あった。そして、わからなくてもお釈迦様の話をぼんやりと聞いているだけで彼は幸せであった。
周梨槃特は兄、摩訶槃特(マカハンドク)に誘われてお釈迦様の弟子となった。この兄は聡明であったが、逆に弟は一つの句さえも記憶できなかった。修行の作法や方法も覚える事ができず、何年も修行を続けるのだが、彼は自分の才能の無さに絶望し、教団を去ろうとする。しかし、お釈迦様の「 自らの愚を知る者は真の知恵者である」という言葉を聞いて思いとどまる。
でも、彼にはどの修行も無理であった。そこで、お釈迦様が彼に与えた修行は、掃除であった。一本の箒を与え、「 垢を流し、塵を除く」と唱えさせ、精舎を掃除させた。彼は一心に掃除をした。
何年もたったある日、周梨槃特はお釈迦様に「 どうでしょうかきれいになったでしょうか?」と尋ねた。

お釈迦様は「 駄目だ。」と言われる。どれだけ隅から隅まできれいにしてもまだ駄目だといわれる。周梨槃特はそれでも黙々と掃除を続けた。
ある時、子どもたちが遊んでいてせっかくきれいに掃除をした所を汚してしまった。周梨槃特は思わず箒を振り上げ怒鳴った。「 こら!どうして汚すんだ。」
その瞬間、彼は本当に汚れている所に気がついた。
それ以来、汚れが落ちにくいのは人の心も同じだと悟り、ついに仏の教えを理解して、悟りを得たとされる。そして、お釈迦様は彼が一生懸命に掃除をしている姿をいつも手を合わせて拝んだという。
20年間続け、その間お釈迦様に一度だけほめられた。「お前は何年も掃除しても上達しないが、上達しないことを腐らずよく同じことを続ける。上達することも大切であるが、根気よく同じことを続けることはもっと大事だ」

心はきれいになるか

周梨槃特はどのようにして心の掃除をしたのだろうか。次々と生じてくる心の塵や垢(煩悩)をどのように掃除したのだろうか。
まず思い至ることは、自分の心はきれいにしたと思ってもまた汚れることである。でも、これは掃除と全く同じなのだ。
私たちが掃除をするのは、汚すことを前提にしている。でも、どうせまた汚れるからといってほったらかしにはしない。それはなぜだろうか。
次に使う人のためとか自分の続ける意志を高めるためではない。掃除を続けることそのことが大事なことなのだ。心の垢を流し、心の塵を除くことをし続けること。これが周梨槃特の行ってきたことなのだ。
修行とはそのようなものではないのだろうか。何かだんだんと上を目指して階段を上がるような修行を考える人もいるのかもしれない。しかし、周梨槃特のように、汚れたらまた掃除をするということは、私たちの生きる姿を表わしてはいないだろうか。

法然上人は「 愚癡に還って極楽に生まれる」といわれた。
私たちは何もできない、いやどうしょうもない自分がいるとわかれば、頭が下がり自然と手が合わさり、お念仏をお唱えすることができ、救われていくのです。合掌