お釈迦様が、托鉢をしていた時に、大きな橋の上で、辺りをはばかりながら一人の娘がたもとへ石を入れている。自殺の準備に違いない。
娘のそばまで行かれたお釈迦様は、優しくその訳を尋ねられた。相手がお釈迦さまと分かった娘は、心を開いて苦しみのすべてを打ち明けた。
「お恥ずかしいことですが、私はある人を愛しましたが、捨てられてしまいました。世間の目は冷たく、やがて生まれてくるおなかの子供の将来などを考えますと、いっそ死んだほうがどんなにましだろうと苦しみます。
こんな私を哀れに思われましたら、どうかこのまま死なせてくださいませ」と、泣き崩れた。
お釈迦様は哀れに思われ、こう諭された。
不憫なそなたには、例えをもって話そう。
ある所に、毎日、荷物を満載した車を、朝から晩まで引かねばならぬ牛がいた。つくづくその牛は思ったのだ。
『なぜオレは、毎日こんなに苦しまねばならないのか、一体自分を苦しめているものは何なのか。』
そして、
『そうだ。オレを苦しめているのは間違いなくこの車だ。この車さえなければ、オレは苦しまなくてもよいのだ。この車を壊そう』。
牛はそう決意した。
ある日、猛然と走って大きな石に車を打ち当て、木っ端微塵に壊してしまったのだ。
それを知った飼い主は驚いた。
こんな乱暴な牛には、余程頑丈な車でなければ、また壊される。
やがて飼い主は、鋼鉄製の車を造ってきた。それは今までの車の何十倍の重さであった。
その車に満載した重荷を、今までのように毎日引かせられ、以前の何百倍も苦しむようになった牛は、今更壊すこともできず、深く後悔したが、後の祭りであった。
牛は、自分を苦しめているのは車だと考え、この車さえ壊せば、自分は苦しまなくてもよいのだと思った。
それと同じように、そなたはこの肉体さえ壊せば、苦しみから解放され、楽になれると思っているのだろう。
そなたには分からないだろうが、死ねばもっと恐ろしい苦しみの世界へ入っていかねばならないのだよ。その苦しみは、この世のどんな苦しみよりも、大きくて深い苦しみである。そなたは、その一大事の後生を知らないのだ。
そしてお釈迦様は、すべての人に、後生の一大事のあることを、諄々と教えられた
愚かな考えをしてしまうことはあります。どうしても切羽詰まり、苦しみを背負いそこから逃れようとしたい時に、私たちはその苦の原因がなくなればと考えます。
しかし、大切なのはその苦しみを乗り越えていく力を養う事でしょう。
その支えとなるのが仏教です。
毎日晴れの日ばかりでない、雨の日も嵐の日もあるでしょう。毎日晴れの日ばかりにしてくださいとはこちらの勝手、願望であります。晴れの日も雨の日もどうか乗り越えていける心を養いましょう。