どんな立派な人でも全ての人から好かれることはなく、どんなに嫌われる人でも全ての人から嫌われる事はありません。
お釈迦様でさえ、当時の人たちの三分の一は知らず、三分の一は変な人 三分の一が尊い人だと称賛しています。
私たちは誰かと接した時に、自分よりも優れた人に対しては、妬ましくなり、自分よりも劣っている点を探そうとします。自分と同じレベルの人に対しては、自分の方が上だと思い、なかなか相手を認めず、自分より劣った人に対しては、明らかに自分のほうが上だと相手を見下す心が出てきます。
自分の方が上なんだと思う心を 「慢」「過慢」「慢過慢」の3の心で表します。
「慢」は自分より劣る。相手を見下す心 上から目線です。
「過慢」は同じレベルに対して自分の方が優れているという心です。
喩えるならば、我が子がテスト70点、友達も70点、同じ点数であるのに、うちの子はクラブ活動しながら、塾も行かずに70点。それに比べて、友達は塾に行きながらの70点。
同じ点数でも、中身が違う。うちの子の方が偉いと威張ってしまう心であります。
「慢過慢」自分より優れているのに、素直に認めることができず、相手の欠点を探して、私の方が上だと思う心であります。
仏教界でもみ教えの優劣がありました。しかし、法然上人はどの教えが素晴らしいのか、どの教えが劣っているのかではなく、我が身にふさわしいみ教えは何であるのか、我が身を見つめて自分にふさわしい信仰を歩ませる。それが口称念仏であります。
我が力で救われるのではなく、阿弥陀様の本願力で救われていく、これが他力念仏であります。すべての人々が救られる道、お念仏に励んでいきましょう。合掌